認知症になっても安心感が得られる3つのポイント【認知症を告白された医師の本を読んで】

文化と思考

長谷川式認知症スケールというものをご存知でしょうか?

国内の多くの医療機関で、認知症の診断の際に参考とされている評価スケールになっているものです。

その開発者である認知症専門医である長谷川和夫先生が、

2017年に自ら認知症であることを告白され、のちに著書「ボクはやっと認知症であることがわかった」にて、自分自身が認知症になってみて理解したことを述べられました。

 

今回は、その著書をぼく自身読んでみて、もっと色んな人に認知症についての理解が広がればいいな。

と共感しましたので、ポイントをふまえて記事にしました。

 

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認知症に対する偏見を変えるより先にやること

長谷川先生がずっと言っていることの一つに、

認知症の本質は、

「暮らしの障害」である

ということ。

です。

つまり、

少しづつ今まで当たり前だったことが出来なくなること、

にあるとおっしゃっています。

 

そこで鍵になるのが、

・周囲の人に理解されるか

・周囲の人に技術があるか

で、これがあるかないかでだいぶ認知症の人の生きやすさは変わります。

 

周囲の人の助けが得られるか、

は認知症になるとめちゃくちゃ重要になるんですよね。

ただ、現実問題として、

周囲が離れていく可能性がある難しさもあります。

 

なぜなら

認知症になってしまった場合、

「あの人は認知症になってしまってもうダメだ」

という偏見にさらされる事が少なからずあるからです。

 

でも、まぁたしかに、

もしも見慣れない異常行動や言動をガチで遭遇してしまったら、

そりゃ引いてしまいますよね。

別に人間の感覚として、はじめから受け入れられないのは普通だと思います。

そりゃそーですよ。

防衛反応的な意味でも。

 

けど、ホントは、

認知症になったからといって、完全に頭が空っぽになって忘れるわけじゃなく、

感情は残っているし、今までの習慣的動作や記憶は残っている事が多く、

何より個人差の幅がめちゃくちゃ広いのが認知症なんですよね。

つまり、認知症と診断されたとしても単純にダメになったわけじゃないって事です。

 

とはいえ

認知症の周辺症状=普通ではないと感じる心理

がどうしても発生してしまう文化の中では、

偏見を変えるのは難しいです。

正直いって、ボク自身も本格的に介護で関わる前は認知症の方に対して偏見がありました。

 

じゃどのように変わったのかと考えてみると、

認知症の方との関わりを通して、次第に偏見の壁はなくなっていったんですよね。

ぼくは最初は多少偏見を持っていても、関わりはスタート出来ると思っています。

そして、

少しでいいので歩み寄る努力をすれば、

認知症を持った方を安心させるアクションはとることは出来る。

 

そうやって、安心感を与えられる関わり方をしていくうちに偏見も少しづつ薄れ、

だんだんと認知症で起こることは自然なことのように感じるようになっていくのではないか、

と考えています。

では、どうしたら安心感をもたらせるだろうか?

生活の匂いのある環境にいる

長谷川先生も認知症になって、デイサービスやショートステイを使うようになったそうですが、

いち利用者として介護サービスを使ってみて感動したそうです。

特に介護職員さんの個々の利用者への向き合い方や前向きになるような声かけなどには、

自分も受けてみて「気持ちが良かった」とのことでした。

 

しかし、一方で

「家に帰りたくなったり、今日は行きたくない」

という気持ちも長谷川先生にも実際にあったようです。

 

なぜ家にいたい気持ちが出てしまうのか?というと、

「家にいると、生活の匂いがあるから」

だそうです。

電話が鳴ったり。配達が来たり。誰かが訪ねてきたり。

他にももっとあるでしょうが、それら全てに生活の匂いがあります。

おそらく個々の人によっても匂いを感じるところが違うでしょう。

 

家の環境だったり、

人だったり、

時間の流れだったり、

音だったり、

 

なんだか安心するのは、

慣れ親しんだ生活の匂いのするモノに触れるから

認知症じゃないぼくらだって、

仕事や学校から家に帰ってきたら、やっぱりなんだか安心しますよね。

 

近頃は介護サービスでも、

ユニット型のホームや施設などで、部屋を自分なりのものを置いたりしてカスタマイズ出来たりり、家にいるような感覚を味わえる古民家を改装したデイや施設も増え、

かつての本人の生活の雰囲気を大切にすることで、安心感を提供できるようにもなってきました。

 

認知症になると当たり前のことが段々と出来なくなっていきます。

また、症状や進行状況によって、自覚がある人もそうでない人もいます。

大事なのは、

・生活をする環境

・一日の活動リズム

本人のペースで快適に過ごせるように合わせることです。

 

あくまでボクが経験した一例ですが、

夜間全く寝れずに徘徊をしまくってしまう男性の利用者さんがいました。

その方を対応した時に、

家族と情報共有、以前の家での就寝環境を確認させていただき、

・部屋の間取りやベッドの位置を自宅に近い状況に変更

・就寝前に薄い明かりつけていたとのことで、近い色の電灯をつける

・枕や布団を自宅のものをお借りする

など

をすると、夜間徘徊が落ち着き寝て頂けるようになった方もいました。

夜間起きても穏やかで、トイレの失敗も少なくなったんですよね。

 

本人にとって生活に匂いのするものを準備すると、こんなに変わるものかとビックリしました。

 

 

もちろん、

こうした対応ではっきり症状がなくなるような効果が見えなかった方もいましたが、

「どうせ変わらんよ」

という姿勢でいるより、ちょっと試してみると、

「あれ?解決したわw」

みたいなことも、割と見つかったりします。

時間を作ってもらえる

高齢になると、判断力や理解力が衰えたり、身体の障害などで上手く身体が動かせなくなるようになっていきます。

その時起こるのは、

・生活の不便さやもどかしさ

・自分に対する苛立ちや失望

など。

 

こうした事情があることに理解してくれている人や、

技術のある人が周囲にいると、

とても安心すると、長谷川先生は言います。

特に認知症の方へは

・勝手に進めず、本人に合わせて「聴く」

・相手が話したり、自発的に動いてくれるのを「待つ」

のがポイントだと。

 

言ってしまえば、

相手側からすると、

「自分のために時間を作ってもらえた」

ことに安心感が生まれます。

 

たったそれだけでいいんです。

 

とはいえ

もしかしたら、この記事を読んでる方の中には、

「高齢者に若い自分の時間を提供するなんて嫌だ」

「そんなゆっくり時間を使うなんて無駄が多すぎ」

みたいな考えの方もいるかもしれません。

 

そんな考えが湧いてしまう気持ちも、確かに分からなくもないです。

関わる側の時間も有限であるし、何より忙しい場合はゆっくり付き合ってもいられないでしょう。

 

ただ、介護の仕事は、

利用者のペースの考えず、コミュニケーションも取らずやっていたら、

それは「ただの作業」になってしまいます。

 

実際これからテクノロジーに補填してもらう業務も増えてくるでしょうが、

今業務に従事している介護職なら、

ヒトとして向き合ってトライ&エラーをくり返しながら得られる体験をたくさんした方が自分の血肉になると思います。

そのために、「お年寄りと向きあう時間」を作るのは、意味があることも忘れちゃいけないです。

自分を犠牲にしてあまりにすり減らしてもいけませんが、バランスを取りつつ向き合うのは価値はあります。

 

考えてみると、他の場面にもあてはまるんじゃないでしょうか。

営業職、学校の先生、コンサルティングなど、お客さんや生徒、その他利害関係者と向き合って時間を作って何か価値を見出せる仕事はたくさんあります。

夫や妻、両親や子供など家族関係だって「向き合う時間」は必要ですよね。

 

相手を安心させるために作った時間は無駄にはなりません。

自分の役割があること

相対性理論で有名なアインシュタイン博士は、「ヒトは何の為に生きているのでしょうか?」ちうインタビューに対し、

「ヒトの役に立つために決まってるじゃないか。そんなことも分からないのか。」

とおっしゃったことがあるそうです。

 

誰かの役に立ったり、社会の中で役割があることは、

僕ら人間には凄く大切なことです。

 

実際ボク自身もデイサービスでの経験で、

認知症の方にとっての役割の大切さを感じることがあります。

 

たとえば、

仕事を退職してまだ2〜3年ほどしか経っていないのに、認知症が発症して急速に進行してしまった、

というパターンの人も多く見てきました。

そんな経験の中で、

趣味を持ったり、友人との社交場があったり、社会との接点がある人は認知症になっても進行は緩やかな傾向の人が多かったですが、退職後に無趣味で引きこもりがちだったりすると進行も早かったりしました。

 

一方で役割が出来た事で改善したケースもありました。 

デイに来る前は、内向的で口数の少なかった女性の方が、

生活リハビリを通して自信を取り戻し、その後はおしゃべりばーちゃんになっちゃったというケースもありました。

学生時代の、高校デビューじゃないですけど、

デイサービスデビューみたいな事は役割をもつと起きたりします。

 

役割をもつことで、生きるハリが出てくるんですよね。

現役から引退したとはいえ、人生は続きます。

そこで今までの経験を生かすか?新たな経験をしていくか?は個人によりますが、

「オレはまだやれる!やりたい!」

「わたしはまだやれる!やりたい!」

この気持ちが湧いていれば、まだまだ元気にやっていけます。

 

若い時は、

役割があること=生活するためにお金を稼ぐために必要

という認識の方が強い人も多いのかもしれませんが、

どうやらそれだけでなく、

役割があること=健全に生きるために必要

という意味もあるようです。

 

たとえお金や時間に余裕を持てるようになった状態に達したとしても、

生きるためにもっと包括的にかかってくる要素の一つとして、

「社会の中での自分の役割」

があります。

 

社会の中での・・・。とか言ってしまうと大げさな感じがしますが、

役割を見つけるポイントは

・今の自分で出来る役割を見つけること

・小さなことで、かつ短い時間でもいい

と思います。

 

そして、介護している側の人は、役割を奪わず、ちょっとでもいいからチャンスとなるきっかけを作ってほしいなぁと思います。

終わりに

本記事のまとめとして、

・認知症に対する偏見は、安心感を与えられるような関わりに理解ができるようになれば、自然に応じられるようにもなり、偏見はだんだんと薄れていく。

・ヒトは生活の匂いのするモノに触れると安心する。

・向き合う時間があることで、認知症の方に安心感を与え、待っている側にもコミュニケーション体験として自分の血肉になる機会にもなる。

・オレ(わたし)はまだやれる!を役割が持てれば引き出せる。

 

今回は、どうしたら認知症の方に安心感を与えられるようになるか?をふまえ、介護する方の意味や認知症の方の視点も少し触れつつ、考察してみました。

 

某アニメで、

「ボクが君を助けたわけじゃない。君が自分で動いて勝手に助かっただけ。」

という言葉があります。

介護をしている人の中には、自分たちは利用者のためにこれだけやっているのに、ちっとも自体は動かない状況もあり四苦八苦している方もいるかもしれません。

そして、答えは意外となんでもないようなところにあったり。

 

認知症の方にも感情は残っています。

 

ちょっとしたきっかけで、お年寄りが動く気になって、

たまたま満足してくれたり、安心してくれればケアとしては成功だと思います。

その過程の時間はボクらにとっても、お年寄りにとっても貴重になるんじゃないでしょうか。

 

今回の記事は以上となります。

読んでいただきありがとうございました。

【参考】

ボクはやっと認知症のことがわかった 自らも認知症になった専門医が、日本人に伝えたい遺言/長谷川和夫、猪熊 律子著 KADOKAWA

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