【OVER80】年を取ろうが挑戦を続けるカッコ良すぎる有名人①

介護福祉とカルチャー

「若いときは良かった」

そんな気持ちを持っている人って結構いますよね?

 

ぶっちゃけ年を取ってなくても、20代や30代の若いときからそう思ってしまったり。

 

「あの頃はよかった」

と、ふと考えてしまいますが、

時間はどんなお金持ちでも戻すことはできません。

ソフトバンクの孫正義さんも

「若いときに戻れるなら自分の全ての資産がなくなってもいい!」

とまで言っています。

 

時間は貴重です。

年を取っても、病気になっても、障害を抱えても。

たとえ人間どんな状態になっても、大事な価値を持っています。

とはいえ、わかっていても難しい。

 

けど、

そんな僕らに生き様から「どうすればいいか教えてくれる人生の先輩方」はいます。

 

今回は、若いときの栄光以上に年を取った後もカッコよく生きた・生きている偉人たちからちょっと元気をもらえる記事になっています。

是非、明日への活力としてもらえたら幸いです。

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森光子(女優)

経歴

京都出身の昭和・平成の大女優。

子供時代に実家で経営していた宿が倒産、肺結核で両親を亡くしたり、戦争中は日本軍慰問団で歌手活動。元々は歌劇役者志望で歌と演技の仕事を平行し生活をする。

ある大阪のラジオドラマの番組での活躍から、ちょうど黎明期だったテレビのドラマ出演にも抜擢され、徐々に関東でも顔と名前が知られるようになった。

舞台の「放浪記」で初主演。

この放浪記を機に、仕事にのめり込み、舞台女優、映画、司会、バラエティなど様々な場所で活躍。

紫綬褒章や国民栄養章など多数の賞をも授与。

 
森さん自身体力の衰えを感じるようになった70代から、友人の東山紀之さんの紹介で元大リーガー野茂選手のトレーナー川島氏に指示を仰ぎながら肉体トレーニングをして、活動を継続。

こうした努力も重なり、80代になっても容貌やコメントも若々しさをキープし、様々な世代からの指示を得る。

2008年に体調を崩すが、周囲の反対もありつつも2009年5月まで放浪記の舞台に89歳で立ち続け、生涯通算で2017回の公演に主役として演じられる。

その後体調が悪化し、入院退院を繰り返す生活へ。

2012年に亡くなる92歳の入院生活中も、舞台復帰の意欲を持っており、枕元には「放浪記」の台本が置かれていたとのこと。

Wikipediaより

エピソード

・毎日スクワットとエアロバイクが70代からの日課

・セリフ覚えが早いことで有名。セリフは紙に書いて覚えていた。

・主演を掴む41歳まで下積み時代だった。

・毎日の食生活のルールを作り、実践。

『森光子流食事ルール』
①毎食、生野菜と温野菜を食べる
②品数は多く、分量は少なくする
③肉を毎日適量食べる
④肉の脂身を適量食べる(※大好物は牛ロースのステーキでした)
⑤毎日、自家製の豆乳ジュースを飲む
⑥ゆっくり噛む

参考:森光子公式サイト

名言

あしたはあしたの風が吹く

・小さいうれしいことをふくらませていこう

・奪い合うと足りない。だけど、分け合えば余るから、不思議よね

・長く続けるために大切なことは、このあたりでいいだろうと手を抜かないことです。私は歯間ブラシを使って毎晩30分以上歯の手入れをしていますが、なにごとも手を抜いた瞬間から坂道を転げはじめます

BBキング(ブルースギタリスト)

経歴

アメリカの黒人ブルースギタリスト。ブルース音楽界の巨匠として有名な人。

1925年のミシシッピ州で生まれ、幼少は農家で働きつつ、ギターやゴスペルに触れて暮らす。

その後、メンフィスでラジオDJとして働くことになり、「Blues Boy」と呼ばれ人気が出始める。アーティスト名のBBはここから由来。

1949年にレコードデビュー。1951年には、「3 O’clock Blues」でR&Bチャートの1位を記録。その後、「the thrill is gone」などヒット作を次々と出していき、卓越したギターテクニックやボーカルは人々を魅了。

また、ブルースに留まらず様々なミュージシャンに影響を与える。

1980年代からアルバムリリースは少なくなるが、メディア露出やライブ出演が多くなり、ライブにいたっては年300回ほどの公演を2000年まで続ける。

ブルースとロックの殿堂入りを果たし、グラミー賞の受賞は15回を超えた。

88歳までライブツアーを行うも、その後認知症と糖尿病の悪化からくる症状などで89歳で死去。

Wikipediaより

公式YouTubeチャンネル

エピソード

・ブルースは当時奴隷的扱いだった黒人の音楽だったが、ジョン・レノン、キース・リチャーズ、エリック・クラプトンらからも支持され白人の若者にも浸透した。

・自らのギターに「ルシール」という名前をつけている。ギブソンのES355を愛用。名前の由来は自身が出演したクラブの大火事の原因から。

名言

・単に年をとっているというだけだ

・学びの素晴らしさは、誰もそれをあなたから奪えないことだ

・リタイア、私はこの言葉を絶対に使わない

・まだ作りたい音がたくさんある。まだやれていないことがたくさんある

黒柳徹子(タレント、平和運動家)

経歴

生い立ちは東京生まれ。大田区で育つ。

NHK放送劇団からテレビが始まったばかりの時代にテレビ女優として出演。その後子供向け番組で様々なキャラクターの声を演じ活躍する。これをきっかけにドラマやバラエティの人気番組にも出るようになり、1日の平均睡眠時間が3時間ほどと多忙になる。

1976年に「徹子の部屋」放送開始。この辺りから、テレビでの女優業より、舞台や司会での活動が多くなる。

著作「窓際のトットちゃん」を出版し、750万部の戦後日本で最大のベストセラーに。世界35カ国で翻訳されている。

その後も多くの人気番組でタレントとして活躍する一方で、1984年からユニセフ(国際連合児童基金)親善大使としても活動。

2020年現在86歳だが、マルチタレントとして精力的に活動を続けている。トーク番組の最多放送世界記録保持者。

自身のインスタグラムのフォロワーは100万を超えている。

Wikipediaより

エピソード

・(たまねぎヘアーを続ける理由)大きな頭が動いていると、自分がうなづいていることがゲストや視聴者に伝わりやすいと思ったから。

・ユニセフの活動時、現地の子供達とボールで遊んでいて、ボールが地雷原に。戸惑うことなく、地雷原にボールを取りに行ってしまう。

・2020年3月時点で、60億円のユニセフへの全額募金を集めている。自身のサイトにて口座の内訳まで公開している。

名言

反省は母親の胎内に忘れてきた。

いつも毎日楽しい何かがあると思っている。

長く生きられたらね、長く生きた者の務めがあると思うの。明るいとか、やさしいとか、何かなきゃね。

見て見ぬふりできないのが人間。人のために灯りを灯せば自分の前も明るくなります。人のためにしたことは自分に返ってくるということです。

橋下武(国語教師)

経歴

兵庫県の名門、灘校の国語教師。伝説の教師とも呼ばれる。

教え子に県知事、作家、東大総長、最高裁事務総長など各界のリーダー多数。

 

教科書を使わず、「銀の匙」というたった一冊の小説を使って3年間国語の授業をすることで有名。メディアでスローリーディングという手法として紹介される。

精読して、言葉や表現を学ぶだけでなく、頻繁に横道に逸れる一般的な国語教育の枠にはまらない型破りな授業スタイルをとっていた。

【橋本先生の授業の流れ】
通読する

寄り道する

追体験する

徹底的に調べる

自分で考える

こうしたスタイルをとっていた理由は、

「生徒の心に生涯残り、生きる糧となる授業をしたい」

と考えたことから。

上から押し付けるよりも、遊び感覚を持たせることで、自分で学び国語力を養える授業を大切にしていた。

 

退職後は、予備校の講師や執筆活動。著書多数。

99歳で灘校の教壇にて、特別授業を行う。

100歳の時に「世界一受けたい授業」ゲスト出演し、国語教育のエッセンスを語られる。

101歳で死去。

Wikipediaより

エピソード

・赴任時の灘校は平凡な学校だったが、はじめて橋本先生が「銀の匙」授業をした生徒の15名が東京大学に入学した。以降、東大合格者続出し合格者数トップの進学校に。橋本先生曰く、教師に授業の自由が与えられており、他の教科の教師も教えることへの熱意が並外れていたとのこと。

・教え子の神奈川県知事でもある黒岩祐治氏の著書「恩師の条件」で銀の匙授業が紹介され有名になる。

・85歳から大長編古典文学である源氏物語の現代語訳に挑戦。9年かけ、94歳で「現代語訳 源氏物語」を出版。

参考:明治の人サイトより

伝説の灘校教師が教える一生役立つ学力/橋本武著より

名言

・必要以上に勉強したことがゆとりにつながる。これが本当の意味での「ゆとり教育」なのです

・人生は誰かと比べたり競争したりするものではありません。自分に与えられた大きな波に乗って、したいことをすればいい

・当たり前だと思われている事に疑問を抱くところから、考える幅がグーンと広がっていく

・スピードが大事なんじゃない。すぐ役に立つことは、すぐに役立たなくなります

・学びとは時に意味がなくても面白ければいいのです

すぎやまこういち(作曲家)

経歴

ゲーム「ドラゴンクエスト」シリーズの音楽を担当する作曲家

学生時代から音楽好きだったが、ピアノが弾けず音大を断念し東大いく。

音楽活動と遊びで留年し、卒業後は工場でアルバイト。音楽評論家に気に入られるのがきっかけで、メディアの世界へ。フジテレビでディレクターとして活躍しつつ、同時にCMの作曲活動も精力的に行っていた。

ミュージシャンへの楽曲提供や曲にヒットにしてからは、テレビ局の年収を作曲活動での報酬が超えてしまい、フジテレビの退社を決意。

以後作曲家としての活動がメインとなる。

 

手がけたのは、

1960年代はザ・タイガースやザ・ピーナッツなどの歌謡曲、

1970年代は特撮やアニメ音楽、

1980年代からは、ゲーム音楽を手がけるようになる。

1986年に「ドラゴンクエスト」の作曲を担当したことで、ドラクエの作曲家として有名になる。以後同ゲームの音楽に関わり続けている。

2016年に「世界最高齢でゲーム音楽を作曲した作曲家」としてギネス世界記録を受賞。最新作が出る度に更新している状況。

2020年時点で89歳の現役作曲家。

Wikipediaより

エピソード

・旧エニックス(現スクエア・エニックス)と仕事をするきっかけとなったのは、当時エニックスが出していた将棋ゲームについてのすぎやまさんからのクレーム手紙から。

・初代ドラクエ作成時は、開発の内部スタッフが使った音楽の出来が良くなく、エニックスから声がかかり、わずか作曲期間が1週間の中で全曲を手掛けた。

・初代ドラクエを携わるときは、まわりは皆んな自分より若い世代。しかし自分もゲーム好きだったのでゲームに関する話題をしてるうちにすぐ仲良くなれた。

・ドラクエシリーズは全キャラレベル99、100時間以上のやりこみをするプレイヤー。

名言

・(DQ1の作曲について)作曲期間がなんと一週間しかなかったんです。(中略)CM音楽を依頼されたときの「とにかく早く作ってくれ」という救急車のようなオファーの経験が役に立って、とにかく大急ぎだったけれどいい曲ができたんです。

・(ドラクエの序曲について)54年と5分で出来たんです。つまり、54年の人生がなければ、あの序曲は出来なかったわけです。

・煮詰まったらドラクエやる

まとめ

いかがでしたでしょうか?

波乱万丈な生き方もされている方もいますが、

改めて僕らに勇気を与えてくれる気がします。

 

ここで紹介した人たちの共通点は、

・自分の信念を貫いて晩年を過ごしている

・自分とは違う世代とも積極的に交流をしている

・現役生活を伸ばすために様々な工夫や努力をしている

ところがあります。

 

この中で自分とは違う世代との交流するのって気持ち次第で出来そうですが、

意外とハードル高いんですよね。

けど、彼らは違いました。

 

森光子さんはジャニーズやお笑い芸人などと交流も親しかったようですし、

BBキングは自身のライブに自分がリスペクトしたミュージシャンなら例え若くても一緒にライブをしたりしていました。他の方も同様です。

仕事柄、越境して関わることが多かったのかもしれませんが、年をとると人間関係は狭くなりがちです。新しい文化を取り込むのも大変になる。

 

『しかしあえて枠を自分から超え、違う世代の人と繋がる。』

というのは、

若々しくいられるきっかけにもなるのかもしれないですね。

 

また、若い世代もその背中をみて「頑張らなきゃ」と励みになるはずです。

 

今回の記事は以上となります。

読んでいただきありがとうございました。

 

【OVER80】年を取ろうが挑戦を続けるカッコ良すぎる有名人②へ続く・・・。

 

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